
この紙に関しては今まで、何万枚って干してきた。
黒谷の伝統的な紙なんですが、伝統的と意識したことはほとんどなく、頼れる素材って意識して仕事しています。
その為、在庫が少なくなってくると、焦って紙漉きをしてる(汗)
伝統的な仕事の厳かな感じとか全くなし(汗)
でも、これが日本の紙なんやな~って意識はしています。
伝統というのはどういうことなのかな?
そう意識することで見えてくるものは過去からの流れ、過去の音。
そこからつづいていくものが見えることは確かです。
でも、その観点を抜きにモノを作るものとしては、
その意識と重さが邪魔者のように感じる時がある。
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先日、友達のすすめで金沢21世紀美術館に行ってきた。
http://www.kanazawa21.jp/
工芸未来派展を見に・・・。
この展覧会で見れた工芸作品には
今の僕が向かっている工芸とは違う感触があった。
作品それぞれに音を感じたり、風を感じたり、インナービジョンを感じたり・・・。
表現をしている。
好きか嫌いかはともかくとして、
表現というもののすばらしさを改めて感じることができた。
どちらかと言えば、自分の進んでいる工芸は恥ずかしい話
shopに置かれているようなモノ。
雑誌にでそうなモノ。
だから、そういう見せ方をしてきたと思うし
そういう展開をしてきたと思う。
そこで、生きていこうと願っていた部分もある。
ただここ数年、何か窮屈さを感じ、本来の自分の表現である絵画というモノにもどろうとしている。
そこには、和紙という概念はあってはいけないものだし
まず表現ありきの世界。
日々の感じる広く大きな包まれた感覚を表現したいと思う。
先日、黒谷の工房に福田十糸子さんが見学に来られた。
http://www.fukudatoshiko.com/
福田さんの作品をはじめて見た時、衝撃を受けた。
マークロスコの世界を立体で、しかも小さな作品で表現してると思った。
その後、何年か経って、福田さんの作品が和紙でできていると知り
その和紙が黒谷を使っているということを聞き、改めて驚いた。
作品を見るのに和紙の張子であるということは関係ないことだし
作り手として、意識させてはいけないことなんでしょう。
ほんとうに素敵な作品を作る方なので、機会があれば見にいってくださいね。
素材というもので、モノを見ようとするとき、
時々、意識の空間を閉鎖してしまう。
その分、ものの見る集中力は高まるが
所詮、閉鎖されたものなのではないのかな?
和紙職人として、集中してモノに向き合う一方、
もっと、広がりのある場所に向かっていってもいいのではないのかな?
今、そんな風に思っています。
ちなみに、最近作った名刺は
創る和紙職人の肩書きはなくして
「ハタノワタル・脱原発・表現・和紙」としている。
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